『上を向いて』
白い一室。窓際のベッドの上で君はいつもと同じように外を眺めていた。邪魔をしては悪いと思い、僕はいつも静かに入ろうとするのだが、君はすぐに気づいて同じ言葉を言う。
「また来たのか、君は。」
この言葉に対する僕の返答も慣れたものである。
「ただ僕が行きたいだけなのさ。たまたま僕がここに来た時に、君が同じようにして居るだけ。君こそ外にでも出たらどうだい?」
「余計なお世話さ。」
そう言って君は笑う。その笑顔はいつもと変わらない。そうして僕らはいつもと同じように世間話を2時間ほど。昨日のテレビが面白かったとか、あの本がつまらなかっただとか。そうした日々が僕にとってとても幸せだった。
いつもは「またな」と言い合うだけなのだが、その日君は申し訳無さそうな顔で言った。
「それにしても僕のせいで君にはいつも下を向かせて悪いね。首、痛めたりしないかい?」
返答に困った。いつも強気な君が気を使うなんて珍しいから。でも君に余計な心配はかけたくなかった。
「痛めたりなんてしてないさ。君こそいつも上ばっかり向いてたら、気づかない内に落としたものに気づかないんじゃないか。また明日も会うかもしれないな。またな。」
そうして僕はその部屋を後にした。僕は君のその申し訳無さそうな顔をこれ以上見ることに耐えられなかった。
次の日も君はいつもと同じ場所に居た。
「今日は良い天気だなぁ!」
君は僕に気づくなりそう言った。いつもと違う第一声に、僕は少し驚いたが慌てた態度を見せるようなことは無かった。
「そうだな。」
覚悟はしていた。しかし僕はそれ以上の言葉を返すことが出来なかった。僕はその場から動けずにうつむいた。君の笑顔はいつもと変わらない。僕の考え過ぎかもしれない。君の笑顔はいつもと変わらない。少なくとも僕にはそう見えたのだ。
「君はまた下を向いて。ダメじゃないか。下に落とした物には気づくかもしれないけど、新しいものが何も見えやしないじゃないか。こんなに綺麗な空なのに、上を向かないなんて勿体無いよ。君には…」
そこで君は言いかけていた言葉を飲み込んだ。僕にはその言葉の続きが分かっていた。いつもと変わらない笑顔のままうっすらと目の端に涙を浮かべている君の表情が何よりも僕の心に君が伝えたいことを届けていた。
僕は声を振り絞って言った。
「また明日も来る。きっとまた明日もここで偶然君に会うだろう。明日も良い天気だと言っていたから明日はちゃんと上を向くさ。またな。」
僕は君に背を向け歩き出す。もっと側に居てあげたかった。でも僕の心が耐えられそうになかった。
「じゃあな。」
君の声が聞こえた。いつも通りまたなと言って欲しかった。
次の日、君はもういつもの場所には居なかった。君はこの世界のどこにも居なくなってしまった。
それ以来僕は下を向かなくなった。その代わりに上を良く向くようになった。君は雲となって青い空に浮かび、夜には冬の澄んだ星空の一部となって、僕が下を向くのではないかと見張ってくれているような気がした。この空を教えてくれたのは君だ。この星空を教えてくれたのは君だ。そんな君にもう心配をかけたくなかったから…。
だから、僕は今日も上を向いて。
あとがき:小説寄りの文章としては初めて載せるかもしれません。皆様は大切に思う人がいるでしょうか。大切な人というのは自分にとって、冬の夜空の中で光る星のようだと私は思いました。時々は後ろを振り向いたり、下を向いたりして、今までを見返すことも大切だと思います。ただ日々を進む私達にとって前向きであること、上昇志向であることはもっと大切であるということ。そして悲しい時こそ、その事を忘れてしまうのではと考えこのような文章へと至りました。
拙い文章をお読み頂きありがとうございます。それではまた別のお話で。